◯日光市 Nikko City, Tochigi Prefecture, JAPAN ◯戦国時代 The Warring States period (16 th century) ◯栃木県森林整備課数値標高モデル(0.5m)をもとに作成 CS立体図はCSMapMakerで作成 ◯文献:今市市史編さん委員会1982『いまいち市史 通史編Ⅰ』
倉ヶ崎城は日光山(現在の輪王寺や二荒山神社など)により築城されてと考えられていますが、その年代については不明です。戦国時代末期頃には廃城となっていたようです。日光山は、古代以来関東有数の霊場として信仰を集めていました。また中世には、各地の領主などからの寄進により現在の日光市南部から鹿沼市北部を中心に広大な領地を持っていたため、他の有力寺院同様、封建領主としての側面もありました。室町時代になると、日光山の実権は座禅院という僧坊の院主が握るようになりました。院主には下野国内の有力な領主の子弟が着任していましたが、戦国時代末期には壬生氏一族が院主になっていたため、日光山は北条方として宇都宮方とは敵対関係にありました。天正12(1584)年頃の両者の主戦場は壬生領と宇都宮領の境界であったため、宇都宮氏は同13年に本城を宇都宮城から防衛に適した山城の多気城に移しています。また同15年には、大宮城や廃城になっていた倉ケ崎城を再興し、北条方への備えとしました。しかし倉ケ崎城は日光山の入口に位置した要衝であることから、北条方により攻められ同年9月には落城します。その後もこの城をめぐり攻防が展開され、12月には宇都宮方が奪還したようですが、城の最終的な帰属については不明です。この城は標高517mの茶臼山に造られています。本丸は山頂から南東方向の小ピークに置かれ、そこから北東・南東にのびる尾根に主要な曲輪や堀切が作られています。また山頂部にも曲輪や堀切がみられます。各曲輪は小規模で、山麓との比高差は120m程ですが、勾配がきついため天然の要害となっています。
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