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More model information慶応3年(1867)アメリカを再訪した福沢が子供たちへの土産としてニューヨークから持ち帰った乳母車。洋学者仲間が次々と暗殺され、福澤も命を脅かされた幕末の攘夷の嵐の中で、子供のためにこれを持ち帰るという着想そのものが奇抜で新しく、また時代に抗する行為であった。初期の門下生の草郷清四郎は「私共は〔福沢の〕令息等をこれに乗せて何度か芝神明辺を輓き歩きました」と語っている。一般的には和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3人が人力車を造ったとされるが、福沢晩年の記憶では芝金杉の内田勘左衛門が福沢家に親しく出入りし、これを福澤から借り、構造を研究して人力車の構造が考案されたという。(人力車の発明には諸説ある)。
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